極限環境に生きる「コケ坊主」のすべて。

昭和基地近くの池の中へ潜ったところ、ちょうど陸の「アリ塚」にも似た、山のかたちをした緑の物体が見つかったのは、およそ20年前のこと。発見者の伊村智教授(国立極地研究所)が名付けたこの「コケ坊主」は、その後の研究から、コケ類を中心に藻類、バクテリア、クマムシなどから成る集合体であり、約1000年かけて60cmぐらいの高さまで成長することなどがわかってきました。コケ坊主が世界的にも注目される大きな理由は、極地という極限の環境下で生きるモデル生物として、まさに理想的な特徴を備えていること。現在「地球・環境システム」プロジェクトの、氷床コアと並ぶもうひとつの柱として、遺伝子解析を含めた"データ中心"によるコケ坊主の全貌解明が進められています。

世界で3カ所しか棲息していない生命体

コケ坊主を構成しているコケの仲間が正式に報告されているのは、昭和基地周辺の池、南極大陸の半島部の火山噴気孔、そして南米と、世界で計3カ所しかありません。南極大陸はオーストラリア大陸のほぼ2倍に当たる広い面積を持つ大陸で、たくさんの池があり、また30以上の国々が観測基地を持っていて、多くの国が湖沼研究を行っています。ところがこの20年来、南極の池に新たにコケ坊主が「見つかった」という報告がない。南極の池は、地上よりむしろ穏やかな環境であり、水温は1年を通じて3〜8度くらい。水面に氷が張っていても光が差し込むので十分光合成が行えるし、天敵となる魚や大きな昆虫もいないので、コケ類にとっては増え放題です。にもかかわらず「とびとび」にしか分布しないのはなぜなのか? 何らかの大気のかく乱があってたまたま胞子が飛来したとすれば、半島部と昭和基地周辺を直接結ぶ大気の流れのようなものを想定する必要があります。一方、南極の池の底を掘削して、地球の古環境を復元しようという研究も広く行われています。この堆積物データから、湖底のコケ類はほんの2000〜3000年前に入ってきたことがわかっています。現在とさほど気候も変わらないため、大気の流れをモデリングによって再現し、コケ類の胞子の飛来を解明する方法も模索中です。

コケとクマムシ、極地に生きる2つの戦略

本山教授の説明にあるように、私たちの地球はおよそ10万年単位で、寒く長い時期と暖かく短い時期という周期を繰り返していたのでしたね? 私たちは今、その暖かい時期のおしまいのほうにいて、コケもこの暖かい期間にどこかから侵入してきた。ところが氷期を生き延びてきた生物もいるらしい……地衣類やクマムシなどの微小動物がそうだと考えられています。氷期には地表も海面も氷河で覆われてしまうため、現在コケ類などが棲息している海岸近くの地表にいたのでは、生き残れるはずがありません。そこで南極大陸は氷期にどこまで氷河に覆われていたかという研究と合わせると、どうも高い山に避難していたのではないかと考えられるのです。最近注目されているのは、なかでも地熱の高い火山です。南極にもいくつか火山があり、実際、その周辺には多くの種類の地衣類やクマムシが豊富に分布しています。すると南極には、コケのように暖かい時期に侵入してきては氷河に流される「一時的な滞在者」と、クマムシのように氷期も世代を継いで生き延びる「定着者」の2タイプの生物がいる。このような生物の多様性やパターンを詳細に解明していくことで、コケ坊主の起源地の特定を狙っています。

極限の環境下では有性生殖なんか要らない

私の研究テーマは、究極的には、極限環境での生物のあり方だと言えます。これだけ厳しい環境ですから、飛んできた胞子がどうやって定着して、どう世代を回していけるのか、ギリギリのとこにいるだろうと。たとえばクマムシは、厳しい時期を生き延びるときだけ有性生殖すると考えられる生き物のひとつです。個体数を増やすには、効率の悪い有性生殖よりも、雌だけで効率よくクローンを再生産していく手段をとるわけですね。この例だけでなく、極限を生き抜く彼らのやり方の中にサバイバルの基本原理が見えるのではないか──この意味で南極は、まさにここにしかない実験場と言えるでしょう。またそのような環境下で、コケ坊主はそれ自体がひとつの森、あるいは社会のような生態系と考えることができます。どんな生き物が住み込んでいるのか、未知の生命を含めて洗いざらい遺伝子を読み、中にいる生物たちがどんなネットワークを構成しているのかを、国立遺伝学研究所、そして広島大学との融合研究によって分析しています。例えば窒素をアンモニアに固定するバクテリアがおり、別のバクテリアがこれを亜硝酸、そして硝酸に変換し、コケがこれを吸収して利用した後,バクテリアがこれを分解してふたたび窒素へ戻していく循環なども、わかってきました。

データ&シミュレーションが紡ぐ証拠立て

ところでコケ坊主はそもそもなぜこんな特徴的な形をしているのか? またなぜ表面と中身が層状の構造をしているのか、考えてみれば不思議ですよね? そこで今、総合研究大学院大学を中心とした共同研究によって、たとえば採光に最適化しているとしたらどういう形に成長していくのかなどを、コンピューター上のシミュレーションによって解析しています。また,藻類の場合には強すぎる紫外線をブロックする色素を表面に作り、内部で光合成を行いますが、この2層がどのようなバランスをとることで厚い藻類のマットが成長しているのかなども、計算によって確かめています。環境が単純で、余計なパラメータを考慮する必要がない南極では、このようなモデル計算の精度が期待できるし、計算結果と実物を照らし合わせることもできます。ああ、コケ坊主ってこんなシステムになっていたのか、とわかる成果を目指しています。

最近は、コケ坊主を広く伝えるためのぬいぐるみ「こけ坊」(ページ上部、円内写真参照)も完成。研究室では、生命の多様性とパターン解明へ向けて、コケ坊主の全貌解明へ向けた取り組みが進行中だ。コケ坊主を主役に、南極観測で生み出されるさまざまな地球環境データを組み合わせ、さらに構成物の全遺伝子解析というゲノムのビッグデータに挑む。
今月行われる当機構のイベントで、これまでのリサーチコモンズでの研究を振り返って、伊村教授が講演します。ぜひご参加ください。下記のリンクから参加登録できます。
■情報・システム研究機構シンポジウム 2014
「新たなステージに立ち、ともに未来を拓く」開催案内
日時:2014年10月17日(金)13:00〜18:00
会場:学術総合センター内 一橋講堂(千代田区一ツ橋2-1-2)
ホームページ: http://www.rois.ac.jp/sympo/2014/

(文:伊村智・池谷瑠絵 写真:水谷充 公開日:2014/10/10)