データが語る”豆ぶち鼠”の大いなる帰還。

実験に理想的な遺伝的特質を持つことに加え、ショウジョウバエとならんで約100年もの歴史を持つ実験用マウス「ムス・ムスクルス(Mus musculus)」。なかでも世界のラボで最も広く使われているのが、黒っぽい栗毛を持つC57BL/6という系統です。この基準系統は、20世紀初頭のアメリカで樹立されたもので、ヨーロッパ産のマウスに由来するとされながらも、実は日本産マウスのルーツを持っているらしい、と長い間考えられてきました。しかしヒトゲノムが解読された21世紀初頭、バイオ分野だけでなく科学全体に大きな変化が訪れます。2002年12月、6カ国からなる国際研究チームによって、ヒトに次ぐ2番目の哺乳類としてマウス基準系統の全ゲノムが解読されると、そのルーツにも新たな光が当たることになりました。30余年に及びこの問題に取り組んできた国立遺伝学研究所と、その一端を担うリサーチコモンズの「遺伝機能システム」プロジェクトの成果を、国立遺伝学研究所 城石俊彦教授がご紹介します。

まずマウス系統の世界分布を俯瞰する

それはメンデルの法則から始まった

われわれが取り組む遺伝学という分野は、メンデルの遺伝の法則に始まったと言ってよいでしょう。単に子が親に似るというのではなく「何らかの単位化された物質が親の性質を決めている」というまったく新しい考え方は、1866年の論文発表当時すぐには認められず、1900年になってようやく3人の学者によって再発見されました。この時、メンデルの理論を検証するために行われた追試のひとつが、今回の話の主役である「豆ぶち」鼠ことファンシーマウスと、ヨーロッパ産マウスとの交配実験でした。ファンシーマウス「JF1」は小さな体に白黒のぶちという特徴を持つ鼠で、日本の文献をひもとくと、江戸時代の天明年間に大阪で出版された『珍玩鼠育草(1787年)』の中に絵入りで紹介されています。また当時のイギリスの文献などから、この愛玩用マウスを知ったイギリス人の貿易商が横浜から持ち帰り、19世紀の後半に本国の愛好家に渡ったことがわかっています。当時のJF1マウスは、内耳の三半規管の異常のために方向感覚がなく、くるくると回ったため「ワルツを踊る鼠(Japanese waltzing mice)」と呼ばれていました。

デンマークから帰還した「豆ぶち」

ところが1987年のこと、デンマークの首都コペンハーゲンのペットショップで、偶然にもこの「豆ぶち」あるいはファンシーマウスが、実際に見つかったのです! この時点では、まだ本当に日本産マウスであるかどうかはわかりませんでしたが、国立遺伝学研究所の故・森脇和郎教授(写真上:額縁内)がこのマウスを日本に持ち帰り、長年の努力の末に豆ぶち鼠「JF1/Ms」系統を樹立することに成功しました。また研究所では同じ頃、日本各地の野生鼠の系統育成にも取り組んでおり、そのうちのひとつ、三島産の「MSM/Ms」(写真下)の系統樹立にも成功しました。

最先端研究を「データ中心」の解析で競う時代へ

一方、1953年に発表されたDNA二重らせん構造と技術の進歩によって、20世紀末には分子生物学・分子遺伝学が発展し、多くのゲノムプロジェクトが生まれました。特にヒトゲノム計画をきっかけに、ゲノムプロジェクトで作成された塩基配列データは論文発表の前に全データを公開して研究者が自由に利用できるようにするという、研究コミュニティの世界的な合意が形成されました。生命科学の分野では、大量の情報を解析して”データに語らせる”「データ中心」の方法が不可欠な時代に入ったと言ってよいでしょう。2002年に公開されたマウス基準系統のゲノムデータからは、哺乳類の中でもマウスが遺伝的にヒトにとても近いことが明らかになり、特に医療分野等における実験用マウスの重要性が改めて認識されました。国立遺伝学研究所を中心とする日本のチームは、2008年に系統樹立した日本産マウス2系統の全ゲノムの解読を終了し、そのデータを世界へ向けて公開しました。その後2011年には、英国サンガー研究所から西欧産亜種「WSB/EiJ」の全ゲノムも公開され、ヨーロッパ産と日本産のマウス系統の全ゲノム情報の比較解析から、実験用マウスのルーツを探ることが可能になったのです。

国立遺伝学研究所にある野生マウスの標本室。世界各地から捕獲して集められた剥製が、引きだしいっぱいに並ぶ。「ここにある標本は、すべてゲノムDNAが調整済み。毛色や形態の計測データも揃っています」と城石俊彦教授。

ムス・ムスクルス100年の旅路

「遺伝機能システム」プロジェクトでは、われわれは日本産マウス2系統とヨーロッパ産亜種の全ゲノムを、ベイズ推計という統計の手法を用いて基準系統と詳細に比較し、基準系統の遺伝的な起源を明らかにしました。まず基準系統には日本産マウス由来の遺伝子が6〜7%含まれており、これが基準系統に2種類のゲノムが混じった「モザイク構造」を与えていたことがわかりました。そして基準系統に混じっている日本産マウスの遺伝子は、三島産マウスよりもファンシーマウスJF1の特徴によく一致していました。これらの結果を総合して、われわれは──日本の愛好家に育てられていた「豆ぶち」が英国の愛好家に渡り、ヨーロッパ産マウスと混血し、この系統がアメリカへ渡って基準系統となったことはほぼ間違いない──という結論を得ました。この成果は2013年にGenome Res誌に発表されています。

データ公開サイト『国立遺伝学研究所マウスゲノムデータベース(NIG_MoG)』の運営を担う、国立遺伝学研究所の高田豊行助教。エネルギー代謝に関連した遺伝子の探索と機能解析が専門だが、「ふだんラボで仕事をしている研究者が、なるべく直感的に使えるよう工夫しています。少しでも多くの研究に役立ててもらえれば」と、日々改良に励む。たとえばトップページでは、染色体の図表にカーソルを合わせるだけで、ゲノム番号と位置情報(座標)が表示され、希望するゲノム領域を探索できる。遺伝子の検索結果としては、塩基多型が一覧できるテーブルが表示され、テーブル内のリンクからさらに他のデータベースへ飛び、関連するタンパク質やアミノ酸置換情報等も参照できる。「現在、ゲノム多型情報と他の表現型情報をリンクさせる機能強化を進めています。遺伝子機能の解明を加速できればと考えています」。

(文:城石俊彦・池谷瑠絵 写真:ERIC・水谷充 公開日:2016/02/10)