簡単には答えにたどり着けない場所、
再び挑戦の地「南極」へ
広大な海に囲まれ、厚い氷に覆われた類まれな環境を有す南極は、地球上に残されたわずかなフロンティアの一つだ。簡単に人を寄せ付けることのないこの土地に、多くの人びとが好奇心を掻き立てられている。原田尚美さんも、彼の地に魅せられた研究者の一人だ。2024年12月には、第66次南極観測隊の隊長として、自身3度目となる南極観測に挑む。
答える人:原田 尚美 教授(東京大学 大気海洋研究所/国立極地研究所)
はらだ・なおみ。東京大学大気海洋研究所附属国際・地域連携研究センター教授、第66次南極地域観測隊長兼夏隊長。名古屋大学大学院に在籍中、第33次南極地域観測隊の夏隊に初参加。海洋科学技術センター研究員を経て、海洋研究開発機構にて研究活動を展開しながら、2018年には、第60次南極地域観測隊副隊長兼夏隊長として参加。2022年より、東京大学にて教鞭を取る。
巡ってきたチャンス、再び挑戦の地へ
生物地球化学を専門とする原田さんは、長年にわたって、極域の海洋を対象とする調査研究を続けている。現場で得た多様な観測データを基に、海洋環境と海洋生物、そして生態系の関わり合いを明らかにしようとしている。フィールドの一つである北極は、地球環境の変化を真っ先に反映する地域として、近年特に注目を集める。温暖化により北極海と周辺海域で観測された変化は、間もなく日本周辺でも起こり得る変化であると考えられているためだ。
一方、対極に位置する南極の観測は、また異なる重要な意味を持つ。「南極は、地球上の他の地域に冷気を送り込む、クーラーのような役割を果たす場所です。北極とは異なり、大陸が存在するということと、高度が圧倒的に高い上、人口の多い北半球から離れていることから、同じ極に位置していても、人為起源の環境変化の影響を受けにくい特徴を持っています」と原田さん。「ところが、そんな場所でさえ、いよいよ海氷面積の減少が観測され始めています。今、観測を行わなければ、温暖化の影響を受ける前の南極の記録が失われてしまいます」と続けて強調。南極はまさに、温暖化前後の海洋環境を伺い知ることのできる、地球上でも貴重な海域であることを説明する。
原田さんにはさらに、南極観測に向けた特別な想いがある。
北極周辺海域で、15年以上にわたる観測研究の実績を有する原田さんは、極域という困難なフィールドの中でやり遂げられた時の達成感の大きさに触れ、顔をほころばせる。同時に、これまでに2度訪れた南極では「まだその達成感を得ることができていない」という、意外なエピソードを語ってくれた。
「南極は、私の中で特別感のある場所です。氷が厳しく水温も低い。他の海域でできていた観測やフィールドワークが、そう簡単にはできなくなります。その難易度の高さと挑戦性に魅力を感じます。さらに、大学院博士後期課程1年での初めての観測では、持って行ったメインの観測テーマに関わる測定器を、海流に流され、失くしてしまうという失敗を経験しました。ですから、南極に持ち込んだ主要な観測は、まだ成功できていないのです」と振り返る原田さん。今期は、隊長としての職務を全うしながら、自身が長らく抱き続けてきた研究テーマを、力強く前進させる意欲をにじませる。原田さんが挑む観測活動とは、どのようなものなのだろうか。
地球温暖化と海洋生物の意外な関係
原田さんが着目するのは、海洋の食物連鎖を底辺で支える、植物プランクトンや動物プランクトンなどの低次生態系だ。大気中で増加した二酸化炭素の約半分は、海水中に溶け込み、この小さな生物たちの活動によって、特有の炭素循環を形成している。
「海洋の表層に存在する植物プランクトンは、光合成により、海水中に溶け込む二酸化炭素を吸収し、それらを炭素源として有機物を作り出しています。生産された有機物のうち、約1パーセントは、海底に沈降して堆積していきます。残りの大部分は、海水中で分解し、二酸化炭素や栄養塩に戻って、再び生物の活動に利用されています」と原田さん。海水中に存在する生物由来の有機物の観測データから、南極海における炭素循環のメカニズムを明らかにし、生物を介して海が果たす、二酸化炭素吸収の役割を示すことを目指している。
しかしながら、海水中の有機物は、全貌を捉えることが困難な存在でもあると、原田さんは語る。「生物が作り出す有機物には、色々なサイズが存在します。私たちは、ある一定以上のサイズを粒子と呼んでいますが、このうち、特に微小な粒子が、大量に海水中に懸濁しています。さらに小さなサイズは、もはや溶けているとみなして、溶存態と呼んでいます。そうした非常に小さな有機物も、炭素量に換算すると大量にあると言われていますが、観測が難しく、なかなか正体を掴むことができません。そのため、数十年前から世界中で研究されているにも関わらず、いまだに海洋生物が、どこで、どれくらいの有機物を作っているのかの全体像を掴むことができていないのです」。
原田さんは今回、小さな粒子の存在量を把握したり、プランクトンなどの識別が可能なセンサーを搭載した、イベントベースビジョンセンサー(EVS)という新しい観測機器を伴い、南極観測に挑む。「生物の光合成を介して、海がどれくらい二酸化炭素を吸収しているのか、これまで過小評価していた可能性のある推定値を、刷新していくことができるのではないかと考えています。今回は、ぜひそこに迫っていきたいですね」と意気込みを語る原田さん。加えて、地球温暖化と海洋の炭素循環の関わり合いには、興味深い側面があることも紹介してくれた。
「すでに海氷の減少している北極海では、沿岸域で植物プランクトンの生産が高まっているとも言われています。海面を覆っていた氷がなくなることで、海面に降りそそぐ太陽光が増え、植物の生産に必要な光が十分に当たるようになるためです。温暖化によって、生物を介した海洋の炭素吸収能力は、逆に増えていくことを示唆しています。一方で、海水の温度が上がると、二酸化炭素を物理的に吸収する能力は下がってしまいます。どういうことかと言うと、炭酸飲料をイメージしてみてください。冷えた炭酸水には、炭酸が多く溶け込んでいますが、室温で温まってくると、気が抜けた状態に変わります。温暖化が進むと、海もそのような状態になるのです。海洋の二酸化炭素の吸収力は、物理的な能力が落ちた分、生物が能力を引き上げる可能性がある。物事は単純ではなく、視点も一方向ではありません」。
つながる、続いていく南極観測のこれから
原田さんは、副隊長として第60次観測隊に参加した後の6年の間、3度目の挑戦に向けた準備を進めてきた。「行けるという保証はありませんでしたが」と、笑みを見せる原田さんだが、見事にチャンスを掴み取ることができた。「前回は副隊長として、マネジメントの仕事を中心とした役割を担い、隊という組織をまとめることについて、すごく勉強をさせてもらいました。一方で、南極に行くと、みんなが観測をし、みんなが研究をしているわけです。それを見て、ああ、やっぱり私もここで研究がしたいと、とても強く思いました」と振り返る。
南極地域観測は、6年間毎に改訂される中期計画事業として進められ、重点的に取り組むテーマが設定される。現在は、2022年(64次隊)~2028年(69次隊越冬終了)を対象期間とした、南極地域観測第Ⅹ期の最中にあたり、メインテーマの1つは「海洋」だ。原田さんが隊長として参加する第66次観測隊には、海洋観測の分野のスペシャリストが、数多く名を連ねている。
「海洋学は、物理に化学、そして生物と、色々な分野の人が連携し合って、総合的に解析していく統合分野です。特定分野に絞られる萌芽観測や一般観測、そして基本観測は、自分と数名だけで行うというような観測の在り方ですが、今回の場合は、重点研究の1つとして、あらゆる分野の人たちが一緒に参加してくれるので、多面的な成果が出せそうです。すごくワクワクし、楽しみにしているところです」と笑顔で話す原田さん。原田さんらの観測データは、時空間的にも限られたものであることに触れ、他分野との連携の重要性を説明する。
「海洋の二酸化炭素の吸収能力や、生物の光合成の働きの増減を、南極海全体のデータに捉え直すには、モデルシミュレーションを専門とする研究者たちと連携する必要があります。私たちが行う現場観測は、モデルシミュレーションの正確性を高める材料になるため、とても重要なのです。色々な人たちとの連携と多角的な視点で、海の持つ炭素吸収能力が、将来的にどのように変化していくのかを、明らかにしていきたいです」。
さらに原田さんは、このように期待をにじませる。「そしてこの研究を、次世代の方々につないでいきたいと思います。そのポテンシャルを持った若い方々も、今回はたくさん参加してくれるので、そうした人たちにつなげていき、長い時間がかかろうとも、明らかにしていきたいというのが目標です」。
いくつになっても楽しむ姿を見せていきたい
原田さんは今回、自身の研究活動を前進させていく大きな目標とともに、観測隊をまとめる隊長という役割を背負い、南極へ赴く。その役割について、どのような想いを抱いているのだろうか。
「隊長は、みんなのお母さんやお父さんのような存在。南極では、自然が相手ですから、悪天候や装置の不具合など、みんなをハッピーにさせられない状況がよく発生します。そうした時に、観測の中止など、ネガティブな判断を行うことも多い役割です」と原田さん。「普段から信頼関係を築き、あの人に言われたら仕方がないと、みんなに思ってもらえるような存在になりたいと考えています」と続ける。第60次観測隊に副隊長として参加した経験を活かし、トラブルが起こりそうな場面には、自ら積極的に関わり、一緒に解決していくことを積み重ねていきたいと話す。
一方で、経験と準備を積み重ねてきた原田さんの、肩ひじを張らない自然体の魅力が表れた言葉も印象的だ。「色々な仕事を持つ、多様な人たちの組織をまとめていくのは、本来、難易度の高いことだと思います。ですが自分では、大変さをそこまで意識していないところもあって、本当に大丈夫なの? と自分に言い聞かせたりもしています。私が取りこぼしたところを、周りの人に拾ってもらいながらやっていく、そんなふうにして進んでいくのではないかと思います」と笑みをこぼす原田さんに、頼もしさと親しみを覚えるのは、隊員たちも同じだろう。
また、第66次観測隊には、大学の研究室で原田さんが受け持つ学生も一名参加する。2年前から、大学で教鞭を取るという新たなスタートを切った原田さんだが、教育者という立場で初めて臨む南極観測にも、次世代に託す想いがある。
「指導というのはどういうものか、未だに分かっていないところもあります。ですが、私がはしゃぎながら、楽しんでいる様子を見れば、分かってくれるのではないかと期待しています。学位を取るに当たっては、不安や葛藤が絶対にあるはずですが、そういうものを抱えつつ、やはり楽しむことが大切だということを、学んでもらいたいと思います」。
原田さんにとって、進路選択を控える大学生の不安や葛藤は、そのまま自身が経験してきたことにも重なるという。原田さんは、女性への偏見がまだ根強く残る時期に、博士前期・後期課程へと進学。研究者の道を志し始めた。「大学院に進む時に、隣の研究室の先輩からは、女性が大学院に行っても何にもならない。早く結婚して子どもを産んだ方がいいと言われたこともありました。その当時は、何てことを言うのだろう、絶対行ってやると思ったものです。今となっては、それすら逆の意味で捉えられ、励ましになったように思います」と話す原田さん。人生のあらゆる場面で、さまざまな人との出逢いや言葉が、道を拓くきっかけになったと続ける。
「博士課程で指導していただき、学位を認定して下さった先生からは、修了時にとても長いお手紙をもらいました。これからは、新しいテーマに挑戦していきなさい。ただし、大学院の博士課程でやってきた研究テーマは、ずっと忘れずに振り返るようにしなさい。ということが書かれていました。今思えば、大学院で初めて参加した南極観測で、私は失敗を経験しています。まだ辿り着けていない観測への想いが、自分の深い所にあって、それに図らずも、もう一度挑戦させてもらえることになったのは、その手紙の支えがあったからこそだと思っています」。
原田さんには、人との出逢いとチャンスを引き寄せることの大切さとともに、今回の3度目の挑戦を通じて、伝えたいことが他にもあるという。「私のようなおばさんでも、南極に行ける。何歳になっても挑戦できるのだということも、発信していきたいです」と話す原田さん。最後に、心を捉え続ける南極とはどのような場所かを伺った。
「南極は、やはり難しい場所。そう簡単には答えを見せてくれない場所。そして挑戦しがいのある場所ですね」。若い頃と変わらぬ情熱を胸に、この冬、原田さんは南極へと旅立つ。
(聞き手:ノンフィクションライター 西岡真由美 写真:飯島雄二 公開日:2024/11/8)