受け継がれる熱意、
遺伝研をサクラ研究の名所にしたい
静岡県三島市にある国立遺伝学研究所(遺伝研)は、サクラの名所として名高い。サクラ並木の沿道と所内各所には、およそ220種類550本のサクラがあり、1月から4月にかけて次々と開花する。この見事な景観は、サクラ研究に賭けた先達の情熱を偲ばせる、遺伝研の誇りだ。遺伝研を、再び「サクラ研究の名所」とすべく、挑戦が始まっている。
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答える人:小出 剛 准教授(国立遺伝学研究所)
こいで・つよし。国立遺伝学研究所 マウス開発研究室 准教授。大阪大学大学院医学研究科生理学専攻 博士課程修了。学術振興会特別研究員(国立遺伝学研究所所属)、ケンブリッジ大学研究員、国立遺伝学研究所 系統生物研究センター助手を経て、2002年より遺伝形質研究系マウス開発研究室准教授。「遺伝研さくらの会」では、世話人も務める。
サクラ研究のあらたな船出
国立遺伝学研究所(遺伝研)は、全国でも名高いサクラの名所の一つだ。多種多様なサクラの開花を、毎年楽しみにしているファンも多い。遺伝研の歴史とともに歩んできた「遺伝研のサクラ」は、そのシンボルとして愛され、職員にとっても思い入れの深い特別な存在だ。一方で、研究所としての課題意識も生まれている。
「サクラは、遺伝研を象徴するものの一つです。遺伝研を紹介する時には、サクラの景観と合わせて話すことが多いのですが、残念ながら『遺伝研の研究』とサクラの研究が、セットで話されることは、あまりありません。維持の難しい植物でもあり、保存を続けるか議論になることもあります」と話すのは、遺伝研で研究を行う、マウス開発研究室の小出剛さんだ。
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サクラは戦後、荒廃した土地に開設された遺伝研の敷地を、明るく彩るために選ばれた樹木で、植物遺伝学の研究材料としても大切にされてきた。中心的な役割を果たしたのは、竹中要博士(1903年-1966年)だ。多様な栽培品種の収集と、日本を代表する品種の一つ「ソメイヨシノ」が、野生種のオオシマザクラとエドヒガンの交雑種であることを突き止めるなど、サクラ研究の第一人者でもあった。当時、遺伝研のサクラは、遺伝研の景観とともに、研究をも代表するシンボルだったのだ。
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(オオシマザクラ 2021.03.24 「みてみて遺伝研」桜ギャラリーより引用)
小出さんは語る。「私が遺伝研に着任してから、今年で30年になります。私が、1961年に生まれ、物心がついたころ、一人の研究者が、現役のまま遺伝研で亡くなられています。それが、竹中要先生です。ずいぶん昔のことですが、竹中先生が収集されたサクラと、先生の研究成果は、今でも多くの研究者に語り継がれ、遺伝研では、とても大きな存在になっています。竹中先生が収集されたサクラが今一度、有用な研究の材料として、認識されるようになることを願っています」
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竹中博士の研究から、半世紀以上の時を経て、ゲノム解読技術も飛躍的に発展を遂げている。今だからこそできる、サクラ研究があるのではないだろうか。こうした志が、遺伝研におけるサクラ研究を、再び動かし始めることになった。
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花も香りも多彩に変化、サクラは魅力的な研究対象
日本には、野生で自生する10種のサクラがある。それらの優れた雑種や、偶然生じた花弁や香りに個性のある個体を、人の手で継代、維持、繁殖させたものを栽培品種と言う。栽培品種は数多く、遺伝研だけでも、現在およそ220種類を保存している。こうした多様性を生み出すメカニズムを持つサクラは、研究対象としても魅力的な存在だ。
「サクラの花は、もともと一重ですが、八重になったり菊咲きになったりするなど、品種ごとにさまざまな形態の変化が見られます。また開花時期も、2月頃に開花する早咲き(寒桜)や、4月に咲く遅咲きのサクラがあるなど、これまた多様です」と小出さん。サクラには、さらに興味深い一面があると言う。
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「サクラには、『枝変わり』という現象が起こることも知られています。一本の樹木は、同じ遺伝子で形作られるため、均一な特徴を持つはずです。しかしサクラでは、ある枝の先だけ、形態の違う花を咲かせるということがあります。この枝の先を採って、接ぎ木をして栽培すると、その特徴を維持したサクラを増やすことができるのです。枝変わりの際に、どういった変化が起こっているのか、ゲノムを解読すると原因となる遺伝子が分かる可能性があり、研究対象として面白く思います。
そしてサクラには、研究者や愛好家の手で蓄積されてきた、花や枝葉の形状、咲き方の特徴を子細に記録した、膨大な形態観察の情報があります。それらが、ゲノム情報と一緒になれば、形態だけでは分からなかったことが、新しく見えてくるのではないかと思います」
また小出さんは、多様な品種の元になった可能性のある野生種の一つで、竹中博士の研究とも縁の深い「オオシマザクラ」に注目しているという。
「伊豆大島には、国の特別天然記念物に指定された、樹齢800年以上と言われるオオシマザクラの巨木があります。人の往来が少なく、人為的に移植されたり、受粉、交雑をした可能性の低い時代に生育した、このサクラのゲノムを、今解析しておくということは、とても重要になると考えています」
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(写真提供:伊豆大島ジオパーク推進委員会)
「染色体構造」を解明、生物の進化研究を新たなステージに導く
小出さんらは、遺伝研をはじめ、森林総合研究所の研究者らなど、18名からなる「サクラ100ゲノムコンソーシアム」で、オオシマザクラのゲノム解析に挑んだ。そして今回、その成果を「オオシマザクラの完全ゲノム配列」として公開。野生種のサクラでは、初めての事例になるとともに、通常のゲノム解析結果に留まらない、新たな知見を示すことに成功した。
「オオシマザクラは、8本の染色体を持っています。今回は、すべてのゲノムを解読すると同時に、染色体の構造を解明することができました。特に、ヒトゲノムでも解析が困難である、染色体のセントロメア領域の構造が明らかになったことは、大きな成果です」と小出さん。
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生物のゲノムDNA一式は、細胞が分裂、増殖する際に複製され、新たな細胞に均等に分配される。この分配に重要な役割を果たすのがセントロメアだ。
今回の解析では、通常のゲノム解読に使われる長鎖・短鎖シークエンシングに加え、Hi-C法という手法が用いられ、立体構造の情報も加えてゲノム配列を決定する試みが行われた。
小出さんは、「8本の染色体は、一つの構造物として見ただけでも、それぞれに全く異なる個性があることが分かり、非常に興味深く感じています。また、先ほどお話ししたセントロメアの構造も、染色体ごとに特徴が異なることが分かりました。
セントロメア領域は、高度な反復配列からできているため、通常解読は困難です。私が普段研究しているマウスにおいても、染色体の構造を含めた、完全ゲノム解読に挑む研究者は、まだほとんどいません。それほど大変な解析ですが、今回は、長い配列(約20キロベース:塩基の数)を何度も深く読むことで、高精度の解析が可能になりました。ゲノムサイズが、ちょうどヒトの10分の1ほどであることも、成功の鍵です」と説明する。
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プロジェクトのメンバーの一人で、研究員の藤原一道さんもこう振り返る。「本プロジェクトでは、特にゲノム解析における技術的な課題が大きな挑戦でした。サクラのように、高い遺伝的多様性を持つ野生種では、ゲノムアセンブリを構築するために、膨大なデータ処理と試行錯誤が必要でした」
通常のゲノム解析は、200ベース前後の短い配列に分けて行われ、断片的に得た解析結果を、コンピュータで組み立て、元の配列に再構築していく(ゲノムアセンブリ)。しかし、高度な反復配列を有するセントロメア領域では、大量の似通った断片が検出されるため、再構築は困難を極める。そこで今回は、先端ゲノミクス推進センターの豊田敦先生の力を借り、長い配列を一気に解読する試みを行ったという。コンソーシアムを組むという、ユニークな体制が実を結んだ。
小出さんは、「種の進化について論じるときは、まず遺伝子の違いに着目します。しかし今後は、染色体の構造の進化という観点でも、さまざまな議論が出てくることになると思います。そうした面でも、今回の成果は面白いものだと思います」と、顔をほころばせる。
遺伝研を再びサクラ研究の拠点に
遺伝研でのサクラ研究が、再び花開こうとしている。小出さんは、次のように語る。
「私は普段、マウスを材料として、その行動を研究しています。サクラの研究は、私が慣れ親しんでいる研究分野とはかなり異なります。ただ、生物の基本である遺伝子や、それを担うゲノムDNAを持つことは同じで、その遺伝子の違いにより、特徴が異なってくることもまた同じです。ゲノム解読が進むことにより、このように異なる生物種も研究対象にできる、面白い時代になってきたのだと思います」
前出の藤原さんも、サクラ研究の今後に期待をにじませる。「オオシマザクラは、日本の栽培品種の多くに強い影響を与えています。完全ゲノム配列が公開されたことで、栽培品種の形成過程や遺伝的背景への理解が進み、サクラの保全や育種の基盤となることを期待しています。また、公開された解析結果は、世界中の研究者が自由に利用できます。東アジアの他の国のサクラとの遺伝的な違いを調べたり、日本特有のサクラの表現型について解析したりと、多岐にわたる研究に役立つと考えています」
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遺伝研では現在、有志の所員からなる「遺伝研さくらの会」を中心に、サクラの保存活動が進んでいる。樹木医の梅原欣二さんの指導を仰ぎ、その作業を補佐する形で、サクラの維持に必要な草刈りや、接ぎ木により作られた品種の後継樹の植え付けなどを行っている。
「サクラの花が咲く時期は、所内の雰囲気がガラッと変わります。それくらい、遺伝研のサクラは、私にとっても、所内の人にとっても特別な存在です。所員が、遺伝研について話す際には、サクラのきれいな所ですよと紹介するだけでなく、サクラ研究を行う場所だということを、アピールできるようにしていきたいと思います」と、小出さんは笑顔で語る。
(聞き手:ノンフィクションライター 西岡真由美 写真:飯島雄二 公開日:2025/2/4)